(感想)Innocent Forest 第1集

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 前回は管理人爆発によって中途半端な終わり方になってしまい申し訳ございませんでした。感想自体は(少なくとも言葉にできる限りのことは)書き尽くしたのでご容赦下さい。


 今回感想を書かせて頂く『Innocent Forest 第1集』は、同一の舞台上で展開する短いお話を集めた連作小説です。総集編という立ち位置だそうなので、まさに“集めた”という表現が相応しいのではないかと思います。
 内容は勿論、表紙や扉絵も素敵です。個人的に柔らかそうな主線が好きなので一層ハッピーです。(語彙を自重しろ)
 それから栞も、宇宙色と言うのでしょうか、そのシルエットが素敵なのですよ~。こういった色合いが本当に好きでたまらん。

 世界観や登場人物は、とても素敵な特設ページが用意されているので是非ともそちらでご確認頂きたいものです。
 特設ページ自体のリンクは控えますが、作者様のサイトから特設ページに飛ぶことができます。(そちらはリンクフリー表記が確認できましたので、お言葉に甘えて記載させて頂きます)

 詠野万知子様のサイトはこちら→Little Curly



「第1話 灯の鳥」

 ケイに限らず、誰にとっても何より大事なのは〈現在〉なのだと思います。充足した過去があっても、現在に立ち返った時にそれが継続していなければ、それは「でも」や「だけど」などの逆接で語られる思い出になってしまいます。
 ルクレイとの休息の時間を通して、その〈逆接の苦しみ〉を、さらに逆接で乗り越えようとするケイの健気な姿が眩しいです。

「第2話 迷い子」

 第一話と第二話とでは「記憶を失う森」の捉え方が異なっていて、主観的な語りの特性が引き出されています。
 ネインの懐疑、第一話を経た読者の中に共感する方はほとんどいらっしゃらないと思いますが、これが第一話だったらどうだろう。読者には第一話という根拠があるけれど、ネインにはありませんから! 残念! ただ、ネインは分析する力が優れているようなので、仮にあったとしてもそこまで読者を巻き込むことも無さそうな気がしますが。
 個人的には目的=終点だと思っているのですが、それを再確認したように感じています。ネインは多分、目的が果たされない苦しみの中で耐え続けなければならない人。(苦しみとは言い過ぎかも知れないですが)ルクレイの差し伸べた言葉が、何よりも彼のそのような運命を表していると思いました。「受け入れようよ」とは誰も言えないんですよね。

「第3話 宝石の庭」

 ウォードは「他者からの肯定」に動かされる人なのかなあ。そしてそのようにウォードを育んだのは、彼が幼少期を過ごした“宝石の庭”なのではないだろうか。何を持たなくても、生(せい)そのものを肯定してくれる心強い存在があったあの庭。
 本編で明確に言及がない(見落としているだけかもしれない)のであくまで憶測ですが、ウォードが純粋に描くことを楽しんでいた頃っていうのは、彼の云う〈宝石の庭〉が健在だった頃に重なっていたのではないかと思います。褒賞や賛辞がなくとも自分を肯定してくれる人がいたから自由な気持ちで描き続けることができた……のかな。それならば自らが肯定されて然るべき根拠として絵を提示し、他者の評価に縛られてしまうのは仕方ない。
 他者に依頼されなければ絵を描けなくなってしまったから、誰かに頼まれて取り出したキャンバスの上に失ってしまった人の面影を写し出すしかなかったウォードが、〈自分が描きたいものを描く〉という気持ちを取り戻し、ようやくその人を正面に据えて描き上げることができた、という展開には感無量です。ウォードの意識には表出していないように見受けられますが、描き上げることで失ったものが再生され、彼の心は“あの頃”に戻れたのだと思います。意識し得る部分に表れないというのは、愛の慎ましさとでも言うべきか。

「第4話 いつか見た食卓」

 いつか見た食卓。どこで見たのだろう、と考えては索漠とした気持ちに駆られる題名です。これが「この物語に対して与えられた題名である」ということ熟慮すると、語り手自身がつけたのであれば自責の念を感じ、別の誰かがつけたのであれば手心のない鋭さが突き刺さります。
 一度読み終えてから冒頭に立ち返った時、繰り広げられているその光景が、全く別の意味を持つようになります。そういえば、物語の導入もこれまでの三話とは異質です。森を訪れた場面は既に過去なんですよね。〈私〉が現在として語っているのはあたかも住人のように振る舞っている〈私〉。彼女自身も自分が客人であるということは弁えているようですが、語りの最初にあの場面を持ち出しているのは、「〈私〉がどのように生きていたいのか」を読者に強く印象づけているように感じました。それは、最終的に「〈私〉がどのように生きていたかったのか」に変わってしまうのですけれども。

「第5話 Raspberry Day」

 わかる! それ!(語彙が最低)
 ……というのは冗談ですが、思わず共感したくなるのは本当。でも、「嫌いになりたくない」という一心で大胆な行動に移せるティータの真っ直ぐな純情さには敵いません。「大好き」を繰り返すのが愛らしくも真摯な想いが伝わってきて素敵です。
 オリジオラの空白の一年間に何が起こったのか、あるいは何故ティータにとって裏切りともとれるような作品を書いたのか、それは分かりませんが、もしも動機が「書きたいものを書く」だったらならば、この第五話は第三話と一種の呼応関係にあたるお話なのかもしれません。まあ、オリジオラはきっと今頃もしくは今後文学研究者たちに生活を穿り返されていかにしてあの作品が書かれたのかを生成論的に追究されていくので詳細の考察は彼らに任せましょう。
 ティータにとってオリジオラ、そしてオリジオラの紡ぐ物語は〈理解者〉なんですね。そしてティータは、理解者としての物語を愛している。読者が物語をどのように読むのか、覗いてみると実に多様性があって面白いですよね。ティータのように〈理解者〉として読むのか、〈憧れ〉として読むのか、エトセトラ(面白いと言いつつこれくらいしか思い浮かばなかった)。一貫してないこともあるし、作家や主題によって切り替えることもあるし、今すぐに楽しまなきゃいけない! と無理に読み方を変える必要もないと思います。今すぐに楽しむために新しい視点を持つのも良いと思います。つまりフリーダム。
 それから第三話の時も感じたのですがルクレイの言葉ってこう、すっと素直に入ってきて心を温められるような心地がします。こういう不思議な優しさを宿している子に傍にいてほしい。(だから語彙が最低)

「Extra 花詰草と風琴鳥」

 「行ってらっしゃい」じゃなくて「さよなら」っていうところが沁みます。「友達だけど、さよなら」とは、恐らくルクレイが何度も経験してきた感触なのでしょう、多分。シンプルだけど感情を揺さぶられます。
 飛び立つことを励まして、別れるということにあまり焦点が置かれていなくて、友情があるなら喜びの反面に伴いうる寂しさや悲しさは語りから一切排除されています。だけど、さりげなく登場した「友達」という言葉が読者に、表出しないそれらの感情を訴えかけかねないような気がしました。してみれば、最後の「喜んでいた」という語りは、そうした読者の邪推を乗り越えたところにある言葉のようにも感じられます。外を望んでいる友達の気持ちを汲み取り、彼の選択を喜ぶルクレイの純粋さが眩しいです。「さよなら」は恐がりな彼の背中を押すのに何よりもふさわしい挨拶だったのでしょう。多分。


 以上、感想でした。
 感想の長さ、振れ幅が大きいですが私の少ない語彙と乏しい表現力で言葉にできる部分だけ抜き取ったらこうなったというだけで、他意はありませんのでご宥恕を賜りたく存じます。後半になるにつれて暴走しているのは許さなくていいです。

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